nagi1000337の備忘録

一人のオタクの備忘録

(ネタバレ注意)衛宮士郎のオタクの『映画 Fate/stay night Heven's feel III spring song』とりあえず感想

ついに、この日がやって来ました

 

待ちに待った三章

 

コロナで延期された三章

 

待ちすぎちゃっておばあちゃんになってしまった方もいるのではないでしょうか

 

そんな三章が、ついに8月15日に公開されました!めでたい!!!

 

 自分はアニメUBWからfateに触れて、それから衛宮士郎という男の生き様に強く惚れ、駆け足のようにfate√、HF√も走破したオタクです。ハードの問題もあってホロウはプレイできていませんでしたが。

そんな僕が最も好きな√がHeven's feel

それは、衛宮士郎を救う物語。

そして、裏切りの物語。

 

そんな期待値によって空高く設定されたハードルを、悠々を超えて行ってしまった

一章、二章。

Heven's feelのテーマである「マスター達の物語」を繊細に表現し、そして物語にはらむ恐ろしさを現実の夜に溶かし込んでしまった文字通りの怪作。

 そこからバトンを受け取ったアンカーの三章が、最高じゃないわけがない。

 とりあえず感じたこと、終わってから考えたことを殴り書きのように書いてみたので、気が向いたオタクは読んでみてください。ネタバレは注意です。

 

 

 

1.三人称から見るHeven's feel

 これは想定外の出来事でした。

 原作でやっているはずなのに、全く同じように物事が進んでいるのに、どこか違う。何か物足りない。新しく見つかったことがある。今まで見えていなかった解釈がある。

 上映中、見たかったものをそのまま見ていながら、このような感覚に陥っていました。そして、それは上映後もそうでした。

 映画は友人と四人で見に行きましたが、感想を言い合いながらも、どこか胸の奥に刺さっていたものがありました。

———どこか衛宮士郎に感情移入出来ない

———考えていた以上に重苦しくない

 もちろん、お話自体はとても重苦しい話です。しかし、原作と比べるとどこか軽い。愚痴ではなく、単純に出て来た感想。物語を、演出の全てを素晴らしいと思い、感動しているのに、どこか足りない、渇きのようなものを感じていました。

 今日一日考えて出た結論。それが一人称か、三人称か。

 

1-1腕士郎

 僕は原作をプレイしている間、終始衛宮士郎に感情移入をしていました。それは当時、ノーマルエンドにたどり着いた後にはしばらくものが喉を通らなくなってしまうほどでした。

 原作は士郎の一人称によって話が進んでいました。

 これは原作が特別優れている点で、僕らは衛宮士郎の目を借りて物語を観測していました。だからこそ士郎が投影を行うたび、決定的に何かが欠けていっていました。断絶する記憶。何度も聞いて来たBGMはどこか落ち着かず、画面は砂嵐を起こしながら白く、果てには名前は欠ける。それら全ての演出を前に、アーチャーの腕によって消えゆく士郎を身を以て体験していました。

 しかし、映画ではそれがなかった。なぜなら三人称だから。

 どちらが劣っているとかの話ではなく、単純に表現方法からなる違い。

 逆に、映画だからこそ得られる恩恵というのもあります。

 

1-2衛宮士郎の表情

 個人的に一番媒体による違いを感じたのが最後のイリヤが門を閉じるシーンです。

 これは士郎の視点では「———」と喋っていて、言葉にならない何かを、地の文で感じることが出来る。けれどもそれは言葉ではなく、僕にとっては思った以上に印象に残っていなかったらしかったんです。

「生きたい!」

 劇場で聞いたこの言葉は、僕を大きく揺さぶりました。この瞬間、僕はこの物語が積み上げて来た全てを、感じることが出来たんです。それがこのセリフでした。

 生きたい。

 きっと、全ての人間が当たり前に抱くような願望。

 しかし士郎はこれまでそれを持っていませんでした。けれどもそれが衛宮士郎という人間の在り方でした。

 それを救う(もしくは否定する)物語。

 改めて、Heven's feelはそのような物語であると、最後の最後で再認識しました。

 作中、特に三章の中でよく士郎は泣きそうな、吐きそうな顔をします。UBWの時には一切見せることのなかった、泥臭い人間の顔です。

 これも三人称によって得られる恩恵で、一人称では士郎の表情を見ることは出来ませんでした。そして、その表情が士郎が人間らしい感情を獲得した証なのだとまざまざと見せつけられて来ました。

 原作とは全く違う視点から、原作よりもわかりやすく、士郎が人間になった証というものを再確認出来るようになっていた作品出会ったと感じました。

 

1-3テメェの方こそ、ついて来やがれ!

 表情と言えば、外せないのが弓兵の表情。

 アーチャーの腕を解放し、殺人の”風”を気力で駆け抜け、「ついてこれるか?」と語るアーチャーを追い抜いた時のアーチャーの表情。これも一度見ると焼きついて離れないシーンとなっていました。

 原作では当然、士郎はアーチャーを振り返ることはせず、ただ前だけを向いて走ります。ですので、士郎一人称ではその時のアーチャーの表情を知ることは出来なかったんですよね。それが今回、明らかになった。

 我が子を見守るような、優しい眼差し。それがアーチャーの顔でした。

 自らとは違う道を選んだHF士郎。UBWの士郎を否定したように、彼は士郎が人間になることを望んでいたのでしょうね。

 例えそれが必ず死ぬ時限爆弾のスイッチを押した瞬間であれ、士郎の目の前にそれだけ険しい道が立ち塞がっていようと、祝福せずにはいられない。手を貸さずにはいられない。そのようなアーチャーの優しさが全て詰まったような、そんな忘れられな一瞬の表情を、アーチャーは見せてくれたのでした。

 

2.節々に加えられる、粋な演出

2-1士郎&ライダーVSセイバー

 この戦いはこの映画の中で最も迫力ある戦いで、とても満足感の強いシーンでした。

 その中に平然な顔をして放り込まれた粋なセリフ。

「シロウは私を信頼していますので」

 かつてここまで決定的に、衛宮士郎の変化を印象付けたセリフはあっただろうか?

 かつてここまで致命的に、セイバーを煽る言葉があっただろうか?

 いや、ない。(反語)

 湧き上がる最高潮の戦闘の中、この物語がHeven's feelであること再認識しながらも、ライダーの頼もしさに震え上がっていました。

 

2-2Believe

 二章の時からそうだったけれど、この映画ではUBWの物語を裏切り、かつアーチャーが出てくるタイミングでBelieveを流す悪い癖がある。感動の鳥肌しか立たない。このような演出を考えた神様にはどうか焼肉を奢りたいと思っている。

 

2-3アンリマユの影

 エピローグにアンリマユの影を確認しました。

 これは憶測でしかないのですが、言峰の言う「生まれるものに罪科は問えぬ」に対する答えを孕む、小さな表現なのかもしれないと思いました。

 

 

 

 今日のところはこれが限界。

 心理描写もとても繊細で優れているのですが、その辺りはパンフレットの方に、監督さんや、菌類、演者さんの凄まじいこだわりがうんと書いてあったので、劇場で残っていたら是非買うようにしましょう。

 それではいずれ、また。