nagi1000337の備忘録

一人のオタクの備忘録

オタクを取り囲む環境(推し、燃ゆ)

お久しぶりです。

一度ひと段落したのでぼちぼち食べたものをを消化していこうと思います。

今回は宇佐美りんさんの作品推し、燃ゆです。

とはいえ、読んだのは随分前なのでそのまま内容の感想となると少し自信がないです。ですので、今回は『推し、燃ゆ』を読んで気づいた、オタクとしての在り方とはみたいなテーマで語ってみようと思います。

 

 

 

 

 

現代のオタク

 初めに、まずはオタクそのものについて。

 オタク、と一言で言っても現代ではその種類は多種多様です。

 アイドル、声優を追いかけるドルオタ、声優オタク。とことんアニメを見まくるアニメオタクと、原作で勝つ原作厨。あくまでオタクを現実の話のネタにする為に見ているファッションオタに、逆に現実ではその手の話を一切しない隠れオタク

 また、これらはそれぞれが細分化することができて、例えばアニメオタクでも、アニメなら全部見るオタクもいれば、戦闘系ばかりを見るオタクもいるし、日常系しか見ないオタクもいます。恋愛というジャンルだけでも、百合、BL、ヘテロ、純愛、NTR等......と多種多様です。

 実際、同年代のオタクでもメインジャンルが被ることは珍しく、現実世界で知り合ったオタクは大抵自分の趣味の中から共通項を見つけ出して寄り添い合うことがほとんどです。

 正直なところ、一言でオタクと言ってジャンルをひとまとめにする時代は終わりました。とてもアバウトな見方をしてしまえば、皆が趣味を持つ時代になった現代は、人間であればオタクです。その内でジャンルが多種多様に分かれているだけで、釣り好きも、言い換えてしまえば釣りオタクと言ってしまえるのです。

 そんな、すっかり日常として定着したオタクの、一つの偏った端っこを『推し、燃ゆ』はとてもリアルに描いているのだと感じました。

 

『推し、燃ゆ』概要

 『推し、燃ゆ』の主人公は所謂アイドルオタクで、その中でも地上の、テレビに露出するタイプのアイドル(現実世界でいくとジャニーズ)を推しているオタクです。

 また、一重にアイドルオタクと言っても推し方も人それぞれあります。主人公は推しの思考を理解したいというものを動力として動いていて、推しの発言のログをとっていたり、ライブを何度も見返して推しの思考を読み取ろうと活動しています。

 その活動ブログに書き残すという活動もやっています。(この活動はどちらかというと、仲間内で考えを共有するためのもので、おそらくはこれを使って有名になろうとか、お金を稼ごうなんてことは考えていないと読み取りました)

 

ストーリー

 『推し、燃ゆ』では以下の文章から物語が始まります。

推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。

                    推し、燃ゆ/宇佐美りん

 

 とても刺激的な文章です。

 オタクの種類によっては心穏やかではいられなくなることでしょう。

 この出来事を皮切りに、主人公の人生は主人公自身のオタクとともに緩やかに変化していくことになります。ここからは実際に本を読んでもらった方がいいと思います。

 この本、私は電子でかったのであれですが、大体80ページぐらいの長くない物語なので、読むこと自体は苦ではないです。文章も、芥川賞を取った作品なので、とても情緒豊です。

 ここから先は作品と自分の経験と照らし合わせて話を展開していこうと思います。

 

オタクと◯◯

・オタクと劣等感

 この二つは、結びつきが非常に強いものだと感じます。

 近年現れたファンションオタクはともかくとして、旧型のオタク(アニメ、漫画、小説、ソシャゲを含むゲームに非常に熱を込めるタイプのオタク)には過去に何かしらの劣等感を持ち合わせていて、その悔しさとかをオタ活に逃したりぶつけたりしていることが多い(というかほとんどではないだろうか)です。

 『推し、燃ゆ』の主人公もそうですし、実を言うと私もそれです。これまでに見てきたオタクにも、そういうのはたくさんいますし、SNSで常識外れの行動をとっているオタクの行動原理も、大概はこれのような気がします。

 ちなみにこれ自体は悪いことではないと思っていて、要は付き合い方の問題なんですよね。僕は一定以上の辛さからは逃げても構わないという思考を持っているので特に。現実の摩擦を二次元の消化することで発散することが出来たのなら、それは争いを一つ消したということになるので、やはりいいことだと思ってます。

 『推し、燃ゆ』では主人公は当初は勉強のできない劣等感を持ち合わせながらもなんとかやりくりしていましたが、推しの炎上からの推しの人気投票の落選というものに対して発生した無気力によって、高校を留年からの退学という道を辿りました。

逆に言えば、推しに純粋に気持ちを注げている状態では、なんとか現状維持ぐらいはできていたという訳なんです。

 

・オタクと人気投票制度

 マジでクソ。作ったやつは○ねやゴミカス。

 失礼、取り乱しました。僕が将来総理大臣になってこの世からなくしたいものの一つですよ、人気投票。

 これは推しへの信仰心だとか愛の行先を大衆の認知へと誤認させて、さらにそちらとは違った方向にお金を使わせるクソ商法です。

 似たようなものにチケの応募券商法がありますが、あれはまだライブに行けるという結果が得られるのでまだマシです。こちらはいくら金を積んでも得られるのは自己満足なので......うん。

 ちなみにお金を使わない投票形式でも嫌いですよ。なぜならマイノリティに刺さる素晴らしい作品、推しを愚弄することと同義なので。

 いち早く、世界からこの文化が消えてなくなることを望んでいます。

 

・オタクとSNS

 現代、オタクと呼ばれるタイプのオタクの活動場所は主にSNSです。SNSでは本当に似たような考えの人間を見つけることのできるメリットと、不特定多数の意見の波に流されるデメリットがあります。

 推しの炎上については僕はあまり詳しくありませんが、ゴシップがつきまとう地上アイドルの界隈では珍しいことではないように思います。(声優界隈では不思議と声優自体が燃えることは少ない気がする。ただしオタクはよく燃える)

 『推し、燃ゆ』では、推しに根強いアンチがつき、ファンが離れ、人気投票で最下位となりました。推しが引退したきっかけも炎上ではないかと思います。

 これは典型的な例で、推し(もしくは作品)の炎上はそのコンテンツにマイナス価値が生じます。一般人から冷ややかな目が注がれるようになりますし、きっと推しは傷つきます。時にはコンテンツの意志や文脈が歪められることだってあります。

でもぶっちゃけてしまえば、炎上する内容って割と小さなことだったりするんですよね。それが不特定多数のエゴに歪められてダルマ式に醜悪なものに変わっていく。一オタクにはどうしようもない、負の連鎖。

ここでは詳細を割愛しますが、今井リサ弟事件はこれです。。虚しい事件でした。*1

  僕はどちらかというとオタクをエゴイズムにおこなっているので、推しの評価をあまり気にしていないのですが、意志や文脈が歪められるのは我慢ならないです。

でも、なんとかしようとはなりません。なにせ、関ってしまったらそれが一番望まないものだから。

 ネットでオタクとして生きていくことは、大衆の意見とともに生きていくことでもあるのです。

 そしてそれは、今やコンテンツも同じなのです。とても、不幸なことに。

 

オタクと卒業

 ネットでオタクをしていると必ずと言っていいほど耳にするのがオタクを卒業しますという言葉。

 好きなコンテンツが終わる時、推しが引退する時、コンテンツに熱が入らなくなってきた時、リアルで恋人ができた時、もしくはリアルに目を向けようとする時.....etc さまざまなタイミングでオタクというものを卒業しようとするオタクは少なくない存在します。かと思えば、一生オタクやってる人間もいます。 初めの方に書いた通り、現代ではオタクは本当に多種多様な種類存在しています。中には、いつか辞められる程度のオタク、いつか辞めなければならないオタク、一生辞められないオタクがいます。

 『推し、燃ゆ』の主人公は推しに全てを費やしたオタクでした。

彼女は物語中に出てくる推しに文字通り人生をかけていて、他のものは二の次になってしまうほど強烈な熱量を注いでいたタイプのオタクでした。このタイプは大抵、その推しが引退した時にそのままオタクではなくなります。本の中でもそうでしたね。

基本的にその推しを引退後も推し続けることはありますが、他の推しに衣替えしてオタクを続けるパターンは少ないです。

 対して、私は一生オタクを辞められないタイプの人間です。

僕にとってのオタクとは好きなものを追いかけている過程なんです。これは好きなものが変わてもほとんど変わりません。たとえば、オタクの種類がアニメオタクから物理学のオタクになったって何も問題は発生しません。

この手のオタクは一生オタクができます。人生の全てをオタクに消化することも稀なので(好きなものに人生かけるとそれはそれで専門家とかになれる)、現実との兼ね合いを上手くつければ人生もそれなりにやってけます。

 

オタクと現実

 オタクは、どんな形であれ各々の好きなものに一定以上の熱量を注ぎます。

 しかし、オタクだからと言って現実世界が免除される訳ではありません。オタクである僕たちは一人の立派な現実世界の住人です。現実世界の住人である限り、果たさなければならない役割があります。社会人であれば仕事、学生であれば学業、バイト。現実的な問題として、オタクはそれらの上に成り立たなければなりません。

 ですが、推しという存在はオタクには輝きが強すぎます。強すぎる輝きは心を奪う。そしてそれを自分でコントロールすることは出来ません。

推しの炎上、推しの引退。推しとは他人であり、人とは間違える生き物です。

そして、そのことに酷く深い悲しみを覚えてしまうのはオタクとして当然のことです。

『推し、燃ゆ』主人公は不幸にもオタクの世界を現実に侵食されてしまったのでした。

 オタクは残念ながら夢(あるいは理想)だけを見て生きてはいられません。

いくら見たくなくたって現実は、見なきゃいけない。

オタクとして生きていくに当たって大事なのは、現実との折り合いをつけることなんだと思います。

推しの光にその身を焦がすことは、それ自体は幸せですが、残念ながらそれだけでは生きていけない。推すためには生きて行かなきゃいけない。そして、生きていくためにはそれなりな社会的立場を確保しなければならないんです。

それは綺麗事だけ言ってはいられないし、やりたくないことをやらなくちゃいけなくなったりもするでしょう。

それでも本当に推しを推していたいのなら、生きていかなきゃいけない。

 最近、大河ドラマ青天を衝けを見ていますが、やはりこの考えに帰結します。

どんなに偉大な人でもどんなに大きな志を抱いていたとしても、死んでしまったら何にもできない。逆に言ってしまえば、生きてさえいればなにかは出来るんです。僕らの使ったお金が推しのアイスを買うお金ぐらいになるかもしれない。そのアイスが、辛いことを忘れるきっかけになるかもしれない。

その為にも、僕らオタクは強く真っ直ぐに生きていくべきなのではないでしょうか。

 

 

総括

 『推し、燃ゆ』の主人公は私とは別物のオタクです。見てる方向は105°ほど違います。私は推しが燃えたときの怒りも悲しみも分かりません。実の所、私は推しという存在を明確に持っておらず、日常生活に影響が出ることはほとんどありません。

 しかし、同じオタクして似たような思考もあったと感じています。

 僕はオタクとして、好きなものにダイレクトに影響を与えたくないというものがあります。『推し、燃ゆ』の彼女もそのタイプのオタクです。あくまで大人数の中の一人であることを願った人間でした。

僕の価値観だと、その思考こそが正しいと思っています。

けれどその結果が、四足歩行になることなら。一体、何が正解だったんでしょうね。

 

またしばらく不定期に更新すると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:爆心地のマトモな意見がねじ曲げられ、醜悪なオタクの意見で変更が行われたとされてしまった事件